円高


ハックルベリー・フィンの冒険(ハックルベリー・フィンのぼうけん、Adventures of Huckleberry Finn)は、マーク・トウェインことサミュエル・クレメンズにより1885年に発表された、最初のグレート・アメリカン・ノベルとして一般には知られている。また本書は、トム・ソーヤー(マーク・トウェインの他の三篇の作品の主人公)の親友であるハックルベリー(ハック)・フィンによって語られる、方言あるいは話し言葉で書かれた最初の小説の一つである。この作品は1885年2月18日に初版が出版された。『ハックルベリー・フィンの冒険』は、優れた教養小説の一例でもある。なお、タイプライターで書かれた、世界で初めての小説でもある[1]。 概要 『アフリカの緑の丘』において、アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイは本書を歴史的な文脈に位置づけた。「あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊に由来する。……すべてのアメリカの作家が、この作品に由来する。この作品以前に、アメリカ文学とアメリカの作家は存在しなかった。この作品以降に、これに匹敵する作品は存在しない」。 無邪気で幼い主人公と、ミシシッピ川沿いに住む人々や景色の精彩に富む描写と、そして主に当時の人種差別への、真摯かつ時には痛烈な確固たる姿勢によって、本書は知られている。ハックと友人の逃亡奴隷ジムがミシシッピ川を筏で下る漂流旅行は、全アメリカ文学における脱出と自由の最も永続的なイメージの一つであるのかもしれない。 出版以来、本書は若い読者の間で人気を博し、比較的毒のない『トム・ソーヤーの冒険』(この作品は、いかなる特定の社会的メッセージも含んでいなかった)の続編として捉えられているにも拘らず、真面目な文芸批評家の研究対象でもあり続けている。更に本書は、215回に及ぶ「ニグロ」(黒ん坊)という言葉の使用によっても批判されている(後述する「論争」の節を参照せよ)。 この物語はアメリカ南北戦争以前の、おそらく1830年代か1840年代頃を舞台としている。 『トム・ソーヤー』で知られているように、ハックはアルコール中毒の父親と暮らす、母親のいない怠惰な幼い放浪者である。ハックは、妻や子供との生き別れを意味する川下への売却を恐れて逃亡した黒人奴隷のジムと出会い、二人は自由を求めて、オハイオ川の北を横断する事を試みる。本書はその二人の冒険を伝えている。 本書には、主要なテーマがいくつか設定されているが、ここでは、四つについて説明する。 四つとは、家族・様々な種類の人々との出会い・人種問題・宗教である。 初めのテーマは、家族。ハックとトムが前作で手に入れた金を盗み取るために、ハックの保護権を獲得しようとするハックの父親による試みと争った末、ハックは自分が殺されたように装って逃亡する。本作のよく知られたプロット上の工夫の一つは、ジムによるハックの父の死の隠匿である。 次のテーマは、様々な種類の人々との出会い。ある時は牧歌的で、ある時は恐ろしげなミシシッピー川流域の人々の生活。ハックとジムは、そこを旅する途中で、悪漢小説の形式のように、殺人者・泥棒・詐欺師・善人・偽善者といった様々な種類の人間と遭遇する。 人種問題のテーマでは、ハックによる緩やかなジムの人間性の承認がある。ジムは現実の人間と同じ程度に不完全であるが、本書における他のどの人間よりも強く勇敢であり、寛大かつ賢明である。この物語に登場するハックを除く白人の登場人物の多くは、愚劣かさもなくば残酷か利己的に描かれている。それとは対照的に、黒人の主要登場人物であるジムは、迷信深く無教養ではあるが、賢く利他的に描かれている。 宗教上のテーマは、人種主義上の外国為替証拠金取引 と同じくらい強く描かれている。ハック自身は神に対して敬虔であろうとするが、神に祈ろうとする度にそれが時間の浪費である事に気付かされ、神を信じるのに苦労する。事実、本作を貫くハックによる絶え間ない彼自身の行動の動機と人生への質問の中にあって、ハックは大衆文学の登場人物の中で、最も偏見がなく心の開かれた一人であるような印象を受ける。 本書の冒頭と終盤でトム・ソーヤーが登場する部分は、全体的なインパクトを損なっていると一般に言われている。その他の読者は、トムが物語を開始させ完結させるのに貢献し、トムの途方もない計画が、神話的な川下りの旅を取り巻く「リアリティ」の枠組みを与える、逆説的な効用を持っていると考えている。 論争 『ハックルベリー・フィンの冒険』が外国為替 された後、マサチューセッツ州コンコード図書館は、「下品な主題による手法」と「物語を綴る、粗野で無教養な言葉」を理由として、本書を禁書に指定した。サンフランシスコ・クロニクル紙は、1885年の3月29日号で素早く本書を擁護した。 「本作を通じて描かれるのは、南北戦争以前の奴隷の評価に対する鋭い風刺である。無一文でアル中の貧困白人の息子ハックルベリー・フィンは、黒人奴隷が自由を得ようとするのを手助けするのに彼が負っている役割のため、数多くの良心の呵責に悩まされる。幾人かの批評家はこの感情が大袈裟であると主張しているが、本作以上に真実を描いた作品はない」。[1] アメリカ合衆国では、本書の閲覧を制限する試みが幾度もなされた。様々な時代にわたり成された試みは、以下の通りである。 マサチューセッツ州コンコード図書館で、発行の直後に禁書処分にされる。 ブルックリン公共図書館とその他の図書館で、少年向けのジャンルから取り除かれる。 人種差別を理由に、推薦書籍のリストから取り除かれる(例えばワシントン・ポスト紙によれば、1995年の3月にはワシントンD.C.のナショナル・カテドラル・スクールの英語クラスでの10年生の推薦書籍から、本書が取り除かれた。コネチカット州ニューヘイブンの Banned Books Online は、公立学校の授業からも同様に取り除かれたと報告している)。 「ニグロ」という言葉の頻繁な日経225 から、本書全体に人種差別主義が含まれていると主張する団体の要請により、本書の圧倒的な反人種差別的プロットを支持する主張にも関わらず、学校放送から取り除かれる。 米国図書館協会は『ハックルベリー・フィンの冒険』を、1990年代を通じた合衆国で、最も頻繁に発禁処分に挑戦的であった5番目の書籍としてランク付けた。 モービー・ディックと呼ばれる凶暴な白いマッコウクジラを執念で追い続けるエイハブ船長(実質上の主人公で、モービー・ディックに片足を食われ、義足となっている)、その独断専行を必死に諌める一等航海士スターバック、語り手のイシュメル、南の島から来た銛打ち名人クイークェグのほか、多様な人種からなる船員や水夫たちが捕鯨船ピークォド号に乗り込み、数年にわたる航海の末、遂にモービー・ディックと対決するまでを描いている。 海洋文学作品では世界一との呼び声も高く、日本版の翻訳初版は昭和24年と古い。しかし現代語とは程遠い表現も多く難解である。スムーズに読みたい場合は新版も出ている。 この作品はFX に富み、モービー・ディックは悪の象徴、エイハブ船長は多種多様な人種を統率した人間の善の象徴、作品の背後にある広大な海を人生に例えるのが一般的な解釈であったが、サマセット・モームは逆に、全身が純白で大自然の中に生きるモービィ・ディックこそが善であり、憎しみに駆られるエイハブが悪の象徴であると解釈している(『世界の十大小説』岩波新書)。 なお本作の白鯨は全身が白く、かたやアルビノかとも思われがちであるが、「いちめんに同じ屍衣(きょうかたびら。死装束)色の縞や斑点や模様がある(『白鯨(上)』 新潮社〈新潮文庫〉)」との記述から、アルビノではなく、全身が白いわけでもないことが分かる。 まず1928年、ミラード・ウエップ監督、ジョン・バリモア主演で「海の野獣」(原題 The Sea Beast)としてサイレント映画で製作された。ただし、原作が余りに暗く難解な作品である為大幅にアレンジされた。(足を失う前のエイハブの姿が描かれる、エイハブが愛するエスターと言う美女や彼の舎弟デレック等原作にない登場人物が登場する。更にラストはエイハブが白鯨を倒し、エスターと結ばれると言うハッピーエンドで終る) 続いて1930年、トーキー(発声映画)で「海の巨人」(原題 Moby Dick)が製作された。こちらも原作をアレンジしていたと言われている。 そして1956年、ジョン・ヒューストン監督、グレゴリー・ペック主演で三度目の映画化がなされた。ここで初めて「白鯨」と言う邦題が使われ、物語も原作に忠実に作られた。だが、皮肉な事に初めて原作に忠実に作られたこの作品は、全2作に比べて興行的に大失敗となった。理由は前に述べたように、もともとこの原作が暗く難解であったため、観客がこの作品のストーリー、雰囲気に付いて行けなかったのが敗因と言われている。しかしその後、「ジョーズ」等の海洋パニック映画の原点として再評価された。権利関連は主演のペックが所有していたが、ペック自身のコメントでは必ずしも映画の出来に満足していなかったことが伺われる。「ジョーズ」の脚本で“鮫狩りのクイントが映画館で「白鯨」を観て、それを嘲笑う”というエピソードが書かれていた。権利はペックが所有していたのでスピルバーグはペックに許可を取ろうとしたが、“「白鯨」を嘲笑うことではなく、単に「白鯨」が気に入っていないから、今更世間に著されるのは嫌だ”として断ったとスピルバーグは語っていることから、よほど作品の出来に満足していなかったことが伺える。 その後も『新スタートレック』のジャン=リュック・ピカード艦長役で有名となったパトリック・スチュワートの主演によるテレビドラマも作られている。また、そのピカード艦長も映画8作目(スチュワート氏が主演の新スタートレックとしては2作目の映画作品)『スタートレック ファーストコンタクト』では、エイハブ船長さながらの執念で宿敵に執着するシーンが見られる。